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【歴史紀行】 謎の作曲家アッコーライの足跡を求めて

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ヴァイオリン学習者なら誰もが知っているアッコーライ:ヴァイオリン協奏曲イ短調。

はじめて取り組むヴァイオリン協奏曲と位置付けられ、日本でも欧米でも発表会やコンクールで演奏される機会が多い。

しかし、この協奏曲を作曲したジャン=バティスト・アッコーライについては、「ベルギー出身のフランス人ヴァイオリン教師、ヴァイオリニスト、指揮者、作曲家」(『ウィキペディア』日本語版)との簡単な経歴が知られているのみで、その生涯は謎に包まれている。

誰もが口ずさむ作曲者不詳のわらべ歌のように、1868年作と言われるこの単一楽章の協奏曲は、作曲家のバックグラウンドが不明のまま長年に渡り愛奏され続けてきた。

哀愁を帯びた旋律。

「快く、伸びやかな楽曲。豊かな表現力とは最もシンプルな技巧から生まれる、という音楽の大いなる逆説のひとつを明らかにしている。」(”Itzhak Perlman Concertos from My Childhood” CD notes-輸入盤-より)

学習者用のヴァイオリン協奏曲の作曲家としては他にフリッツ・ザイツオスカー・リーディングらがいるが、複数の曲が知られている彼らの経歴は、アッコーライよりは明らかになっている部分が多い。詳細な経歴とは言い難いが、生い立ちや音楽家としての活動の具体的な記述の断片からは、ザイツとリーディングの実在は疑う余地がない。

しかし、現在判明しているアッコーライに関する経歴は、彼の実在を信じさせるに十分なものとは言えず、それに加えて、アンリ・ヴュータンの偽名ではないかという説もあり、この魅力的なイ短調の協奏曲1曲のみがよく知られている作曲家の謎は、ほとんど解明されていないのが現状だ。

アッコーライが遺した糸口は限られている。

そのひとつひとつをたぐり寄せ、検証し、痕跡・手がかりを探す。

可能性を追う追想の旅を始める。

photo credit: phileole via photopin cc

(Ⅰ)水の記憶

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ブルゴーニュ、追想の始まり

追想の旅の最初の手がかりは「ジャン=バティスト・アッコーライ」という姓名。

仮に誰かが名乗った偽名なら、そう名づけた意味や意図を手繰り寄せることができないだろうか。何らかの記号的意味や謎を解く鍵が隠されていないだろうか。

名前の「ジャン=バティスト」(Jean-Baptiste)。フランス人の男性名として一般的だ。ヨルダン川でキリストに洗礼を行ったとされる「バプテスマ」(洗礼者)の「ヨハネ」(聖ヨハネ)に発するこの名は、イタリア語では「ジョバンニ=バッティスタ」。

例えばフランス・バロック最盛期に活躍した作曲家リュリは、イタリア生れで「ジョバンニ=バッティスタ・ルッリ」であったが、その後フランス国籍を取得して「ジャン=バティスト・リュリ」となった。

イタリア人のヴァイオリニストで作曲家の「ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ」はフランス=ベルギー派の始祖で、「アッコーライ」偽名説のあるヴュータンが師事したベリオの師匠でもある。

ヴュータンが何らかの理由で偽名「ジャン=バティスト」を名乗っていたのだとしたら、教育用コンチェルトの作曲家の名として、師匠の師匠の名を借りてきたのではないか、という推測は一応成り立つ。

しかしながらそれ以上に「ジャン=バティスト」というフランス人男性名は一般的に過ぎ、これだけではヴュータン偽名説の証拠としては弱いように思う。

次に姓の「アッコーライ」。

こちらは反対に一般的な姓とは言い難く、特殊だ。別の言葉からの引用だとしたら、そこに何らかの意図が隠されていないだろうか?

フランス・ブルゴーニュ地方、ヨンヌ県(Yonne)。シャブリの集積地として知られるオセール(Auxerre)から20キロのところに、その村はある。

「アッコーライ」(Accolay)。

photo credit:  Philippe L Photography  via photopin cc

アッコーライ、中世の水辺の村

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ヨンヌ川右岸にある『カーヴ・ド・バイィ』(Caves de Bailly)は80のワイン・グロワーからなる協同組合で、スパークリングワインでつとに名高い。

ブルゴーニュ地方特有のなだらかな丘陵に、見渡す限りのブドウ畑が広がっている。湿気があるため切り出しに好適であったこの地下のCaves(「洞窟」)は、かつて石灰岩の石切場だったという。石灰質を含んだ粘土質の土壌が、この地のブドウの豊穣な実りを育んできた。

中世の面影を色濃く残す町オセールはその近くにある。

木造の骨組みが露出するハーフティンバーの家々と狭い通り、ロマネスクあるいはゴシック様式の教会群。時の堆積に自然体で処してきたこの町は、また現代の相貌もさりげなく併せ持つ。サッカーのクラブチーム、フランス1部リーグに所属するAJオセールはここを本拠地としている。

18世紀に造られたプライヴェート・シャトーの堀の外をヨンヌ川がゆっくりと流れていく。

川面に映じる周囲の景観がたゆいながら、色とりどりに混ざり合う。やがてニヴェルネ運河の起点にたどり着く。

水はこの先、緩やかに起伏した丘地や小さな渓谷を隈なく縫うように、中世からそのまま抜け出てきたような村々の傍らを細やかに流れていく。まるでその美しさと時の重みを優しくいとおしむかのように。

時の流れを遡っていく感覚に捉えられる。

このニヴェルネ運河沿いの水辺に佇む人口400人ほどの小さな村。それがアッコーライだ。

今では運河クルーズ、トラッカーやサイクリストの格好の訪問地であるこの村は、自らの観光ポイントを次のようにアピールする。わが村は海辺のリゾートとは異なって「親しみにあふれたビーチ・スポットです!」と。

アッコーライには12世紀頃に建てられたゴシック様式の教会がある。

サン・ニジエ教会。世界文化遺産に登録されたリヨン歴史地区にある有名な教会(14世紀建立)と同じ名だが、小村の教会ゆえ規模は比ぶべくもない。しかし歴史はそれより200年古い。

そしてこの教会には1695年に作られたという聖ヨハネの像が確かにあった。

「ジャン=バティスト」の像だ。

photo credit: Brett, The Wine Maestro via photopin cc

サン・ニジエ教会、水の記憶

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記憶の底にはいつも水があった。

その男はニヴェルネ運河沿いの小さな村の川岸に立っていた。川面に浮かぶ自分の姿をこうして幼少の頃からよく眺めたものだ。あれはレッスンの帰り道だったか。

事物は水に映ると混ざり合い、輪郭をなくす。自分が周囲の自然と溶け合ってしまう感覚を彼は好んだ。だから今でも仕事に疲れると、パリを離れ、水辺のある静かな田舎に旅に出ることにしている。

何かを思い出すと、その底で水辺の音がする。

そういう不思議な感覚に最近よくとらえられる。水辺の音は、静寂の音だ。そして目を閉じると形のない淡い色合いの映像だけがぼんやり現れ、幽かな香りもしてくる。木々の息吹きと水辺の湿気が混ざり合った懐かしい香り。

-そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。」(マルコによる福音書1:2-11)

「ジャン=パティスト」は水による神の導き手。

水辺の村アッコーライの教会にあった聖ヨハネ像は、その男の水の記憶を呼び覚ましたのかもしれない。

photo credit: Randalfino via photopin cc

(Ⅱ)ベールに包まれたその生涯

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あやふやなアッコーライの生没年

アッコーライの生没年については2つの説がある。

1)1845年~1910年
2)1833年4月17日~1900年8月19日

1)説の月日は明らかではない。また2)説の場合、生誕地(ブリュッセル)と死没地(ブルージュ)を記載している場合がある。仮にブルージュに墓が残っていればアッコーライが実在した証拠となるが、そういう情報はない。どちらの説も何を根拠に生没年を特定しているのかは不明である。

イ短調協奏曲の楽譜やCD(「パールマン / 子供時代の思い出」)のライナーノートなどは1)説を、英語版ウィキペディアなどは2)説を採っている。

どうやら新しいほうは2)説と思われるが、まことしやかに月日・生没地まで加えられると、アッコーライ実在への疑わしさは増してくる。

イ短調協奏曲の楽譜のうち、カール・フィッシャー版の出版年は1901年、シャーマー版の出版年は1907年とある。アッコーライの生没年が1)説だとすると、いずれも存命中の楽譜出版ということになる。

一方、2)説だと死後の出版ということになる。ねつ造を企図する者が何らかの理由で楽譜を死後の出版とするために、生没年を変更したとは考えられないだろうか。

photo credit: Artur Staszewski via photopin cc

カール・フィッシャー版のミステリー

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カール・フィッシャー版にはひとつミステリーがある。東京芸大附属図書館に所蔵されているこの楽譜の書誌情報を参照してみよう。

〇署名 / 著者名 : Concerto No.1 in A minor for violin and piano / J.B.Accolay ;  [revised and edited by George] Perlman

〇著者標目 : Accolay, Jean Batiste, 1845-1910 / Perlman, George

〇出版事項 : New York : C. Fischer, 1901

〇シリーズ名 : Carl Fischer’s music library, no. 518

編集・校訂者の Perlman はもちろんイツァーク・パールマンのことではない。

ジョージ・パールマンはウクライナ生まれのアメリカのヴァイオリニスト・作曲家。アウアー門下で、カール・フィッシャー社専属の編集・校訂者を務めた。

この楽譜が出版されたのは1901年のようであるが、編集・校訂のパールマンは1897年の生まれである。4歳で校訂はできない。どういうことだろうか?

ドイツ生まれのカール・フィッシャーがニューヨークで出版社を興したのは1849年。当初は独自の楽譜出版ができず、ヨーロッパの出版社から許諾を得たリプリント版の出版が主だったという。

アッコーライ:イ短調の1901年版もリプリントであったのかもしれない。あるいは元になったヨーロッパの出版社の出版年が1901年で、それをリプリントし、ジョージ・パールマンがフィッシャー社専属の編集・校訂者になった1933年以降に編集・校訂し、「1901年」を残したまま出版された可能性もある。

シャーマー版は「1907年」となっている。少なくとも1900年初頭にはこの曲の楽譜が出版されて、世にあったことになる。従って作曲年がそれ以前であることは確かだ。

アッコーライが活動を始めた時代

イ短調協奏曲の作曲年は1868年とされているが、生没年もあやふやな作曲家の作曲年となるとさらに疑わしい。あえて作曲年を明確にしようとするところに、何らかの意図を感じざるをえない。

従来言われている生没年、作曲年にこだわらないで、フィッシャー社とシャーマン社がリプリント版の楽譜を出版したのと同時代、つまり1800年代後半から1900年台初頭にかけて、ある人物によってこの曲が作曲された可能性は考えられないだろうか。

ザイツ(1848~1918年)、リーディング(1840~1918年)、アッコーライ(1845~1910年 *1)説の場合)と並べてみると、学習者用の協奏曲を作曲したとされる作曲家たちが、ほぼ同時代で活躍していたことがわかる。

ザイツやリーディングの曲の楽譜は1900年代初頭から出版が始まった。これらの楽譜が世に出ることで、当時、学習者用の協奏曲への注目は高まっていたはずである。そのような時流に乗って、ある人物がアッコーライをペンネームとして作曲活動を始めた可能性はないだろうか。

(Ⅲ)アッコーライはヴュータンだったのか?

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「アッコーライ=ヴュータン説」2つの可能性

アッコーライが実はヴュータンであったとする説には2つの可能性が考えられる。

ひとつはヴュータン自身がアッコーライを名乗った可能性。もうひとつは別の人物が作曲したにも関わらず、後世それをヴュータンの作であったとした可能性である。

ヴュータンは1820年2月17日に生まれ、1881年1月6日に没した。伝えられるアッコーライの没年よりも早く亡くなっている。

ということは、仮にヴュータンがアッコーライを名乗っていたとしても、ヴュータン死後にアッコーライの没年(あるいは生年も)をねつ造した別の人物がいたはずだ。

つまりアッコーライ=ヴュータン説は次の2つに分かれる。

・ヴュータンが自ら名乗って作曲⇒後年に別の人物が生没年や他の要素をねつ造。

・ヴュータン以外が作曲⇒後年にヴュータンらしいとねつ造。生没年や他の要素もねつ造。

前者の説の可能性を巡って、追想の旅はフランス・ブルゴーニュー地方からベルギー・ワロン地方へと移る。

photo credit: Flikkesteph via photopin cc

ヴェルヴィエ、水の都

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ベルギー・ワロン地方。リェージュの東約30キロ、ドイツ国境にほど近い町ヴェルヴィエ。

「ワロンの水の都」と呼ばれるこの町は、森林におおわれた丘陵を縫って流れるヴェスドル川流域にあり、古くからこの川の水を利用した毛織物工業が盛んである。この地で作られたラシャ製品の質は高く、17世紀にはヨーロッパ中に輸出されたと言う。

ゆるやかに起伏する緑の丘陵地とその間を流れる幾筋もの小川。点在する沼と泉。ヴェルヴィエは「水」の潤いに満ちた町だ。

アンリ・ヴュータンは1820年にこの「水の都」ヴェルヴィエに生まれた。織物職人で自らヴァイオリンを製作・演奏もした父親からヴァイオリンの手ほどきを受け、地元の音楽家に師事した。

6歳の時にローデの協奏曲を公開演奏し、1828年にブリュッセルでその演奏を聞いたシャルル・オーギュスト・ド・ベリオに才能を高く評価され、弟子となった。ベリオに師事したのは3年ほどで、その後は独力でヴァイオリンの技巧に磨きをかけることになる。

13歳、1833年のドイツへの演奏旅行ではシューポアやシューマンとも親交を結び、シューマンからは「小さなパガニーニ」になぞらえられた。

作曲家に憧れていたヴュータンは1835年にウィーンに留学してジーモン・ゼヒターに音楽理論と対位法を、1836年にはパリでアントニーン・レイハに作曲法を学んだ。最初のヴァイオリン協奏曲(第2番)はこの頃の習作とされる。

その後もヴュータンはパリを拠点に、ウィーン、ロシア、アメリカなどへ演奏旅行に出かけた。特に1846年~52年にはロシアの宮廷音楽家及び帝室劇場の首席演奏家に任命されてペテルブルクに定住し、ペテルブルク音楽院で教鞭も執った。その頃作られた「ヴァイオリン協奏曲第4番」はベルリオーズから「ヴァイオリンと管弦楽のための格調高い交響曲」と評された。

ベルギーに帰国したのは1871年。ブリュッセル音楽院の教授としてウジェーヌ・イザイらを育てた。1873年に脳卒中による麻痺で右半身の自由を奪われ、教授の座をヘンリク・ヴィエニャフスキに委ねて、パリに渡って治療に専念した。1879年に発作が再発し、演奏家としての活動は不可能になったが、作曲活動は継続した。

最晩年には娘夫婦の暮らすアルジェリアに引き取られ、療養所で余生を過ごした。もはや自ら演奏もかなわず、ヨーロッパの芸術文化の中心地からも遠く引き離されて、自作が演奏されるのを聞くこともままならぬ我が身の不幸を嘆きつつ、1881年に没したという。

アッコーライのイ短調コンチェルトの作曲年が1868年だとすると、それはヴュータンがヴァイオリニストとしての華々しい演奏活動にひと区切りをつけ、ベルギーに帰国、音楽院で後進の指導にあたろうとする時期に符合してくることになる。

photo credit: PoloGoomba via photopin cc

ヴュータンがアッコーライを名乗るべき理由はあったのか?

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生涯のある時期に、仮にヴュータンがアッコーライを名乗って作曲活動をした可能性はあるのか。あるとすれば、それはどのような理由や事情によるものだったのか。以下にまとめておこう。

理由・事情1 ヴュータンはパリにいた
1868年(アッコーライのイ短調協奏曲の作曲年)当時、ヴュータンはパリにいた。それまでも各国を演奏旅行していたが、1846~52年のロシア定住期間を除くと、ヴュータンは常にパリを活動拠点にしていた。仮に「アッコーライ」がブルゴーニュの水辺の小村の名前からの引用であったとしたら、パリに居たヴュータンがその村を訪れた、あるいはその存在を知っていた可能性はある。パリ南東部からブルゴーニュ地方の玄関口オセールまでは当時すでに鉄道が開通していた。

理由・事情2 ヴュータンは音楽院で教鞭を執った
1871~73年までヴュータンはブリュッセル音楽院で教鞭を執っていた。その時期に教材として学習者用の協奏曲を作曲した可能性はある。

理由・事情3 ヴュータンは協奏曲作家としての名声を確立していた
1868年までにヴュータンは生涯で作曲した7つのヴァイオリン協奏曲のうち5つを世に出しており、第4番へのベルリオーズの評価が示しているように、作曲家としての名声と地位をすでに確立していた。ヴュータンは独奏楽器としてのヴァイオリン技巧の誇示よりも、古典的奥行きのある交響的作品世界を志向していた。仮に学習者用の協奏曲を作曲する必要性が生じた場合、本格的な協奏曲作家として確立した自らの名声を考慮して、アッコーライというペンネームを用いた可能性はあるかもしれない。

photo credit: glasseyes view via photopin cc

ヴュータンがペンネームを使う必要はあったのか?

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とはいえ、学習者用の協奏曲作曲にあえてペンネームを使わなければならない積極的な理由が当時のヴュータンには本当にあったのだろうか?

ヴュータンが当時置かれた状況をもう少し詳細に眺めてみることにしよう。

状況1 ヴュータンは様々な小品を作曲していた
ヴュータンは7つの協奏曲以外にも、短いサロン風小品を作曲している。1873年以降、身体の麻痺のため自らヴァイオリンの演奏が難しくなってからは、チェロやヴィオラなど他の楽器のための協奏曲やソナタも作曲している。例えそれがヴァイオリンの学習者用の協奏曲であったとしても、自らが作曲した作品として世に発表する上で支障があったとは思えない。

状況2 ヴュータンはコンクールの課題曲を作曲していた
例えばもっとも有名なヴァイオリン協奏曲第5番は、ブリュッセル音楽院の卒業コンクールの課題曲の目的で、ヴュータンの友人であった同音楽院のヴァイオリン科教授ユベール・レオナールからの依頼で作曲されている。1858年のことだ。この曲はさらに20年経った1878年にはパリ音楽院でも卒業コンクールの課題曲として採用された。(この時にはヴュータンは若干作品に手を入れている。)コンクール用の課題曲を作曲しているほどだから、ヴュータンが他にも学習者用の協奏曲を作曲した可能性はある。しかし、第5番よりも技巧的に平易な協奏曲だからといって、あえてその曲の作曲のためにアッコーライを名乗る必要があっただろうか。

すでに述べたように仮にヴュータンがアッコーライを名乗っていたとしても、ヴュータン死後に後世の誰かがアッコーライの生没年をねつ造した事実がある。そのねつ造が生前のヴュータンの意図を汲んでなされたものなのか、ヴュータン自身の直接の遺言があったのか。いずれにしてもヴュータンがペンネームを使って自らの名前を伏せようとした積極的な理由が見い出せない限り、「アッコーライ=ヴュータン」説は採りにくい。

可能性が高いのは、ヴュータン以外の誰かがアッコーライのペンネームで作曲。後世に誰かがアッコーライはヴュータンであるという説を唱えたのではないかという推論である。その場合、アッコーライの生没年はペンネームの使用者か、後世の誰かが創作したものということになる。

photo by File:Vieuxtemps.jpeg – Wikimedia Commons

ここまでの結論をまとめてみる
アッコーライという作曲家は実在したか、あるいは実在せず、1860年代~1900年代初頭までの時期に誰かがアッコーライを名乗って作曲した。そのどちらかである。ヴュータンがアッコーライである可能性は薄い。

アッコーライ偽名説から始まった追想の旅。断片的事実、ことに一次資料の裏づけがない確証に乏しい事実もあるが、それも含めて推論をさらに広げていこう。

(Ⅳ)アッコーライが残した9つの楽曲

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アッコーライの作品リスト

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・『小川のほとり(牧歌)』( Au Bord de Ruisseau ( Idylle ) )

・『舟歌 ト長調』( Barcarolle in G )

・『カンツォーネッタ ニ長調』( Canzonetta in D )

・『協奏曲 イ短調』( Concerto in A minor )

・『協奏曲 ニ短調』( Concerto in D minor )

・『協奏曲 ホ短調』( Concerto in E minor )

・『見捨てられしこと-哀歌』( L’Abandon. Elegie )

・『夜想曲 ロ短調』( Nocturne in B♭ )

・『羊飼いの夢想』( Reverie champetre )

これはアッコーライの作品リストである。

イ短調協奏曲を含む3つの協奏曲とサロン風の小品群。全部で9曲ある。ここでは残念ながらアッコーライの生没年や各作品の作曲年、楽譜出版年は明らかにされていない。

これは1925年に出版された『ヴァイオリン事典』(An encyclopedia of the violin)に掲載されたリストである。著者はスイス生まれのヴァイオリニストで作曲家のアルベルト・バックマン(1875~1963年)。イザイの弟子である。

著者のバックマンによれば、これらの9曲は執筆当時に出版された楽譜の存在が確認できた曲であるという。いずれもピアノ伴奏による独奏ヴァイオリン版である。

アッコーライと同時代に生きた画家 ウイリアム・ブグロー

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歴史の彼方、その実在がヴェールに包まれた作曲家と、彼が残したとされる9つの楽曲。

そのタイトルをもとに追想を巡らしていくと、アッコーライと同時代に生きた、やはり忘れ去られた2人の芸術家の肖像に行き当たる。

まずは、アッコーライ作曲の「小川のほとり(Idylle)」。

この曲と同じタイトルの絵画が同時代に描かれている。

描いたのはウイリアム・ブグロー(1825~1905年)。「小川のほとり」は2作あり、1875年の「少女」と1879年の「2人の子供」。ブグローは印象派登場前のフランス画壇で隆盛を誇ったアカデミズム絵画の巨匠で、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授を務めた。新古典主義の流れをくみ、神話・天使・少女を題材とした伝統的かつ耽美的な作風を特徴とする。

ブグローの「小川のほとり」は田園詩あるいは牧歌的物語詩を意味するIdylle の世界の絵画的展開の一類型である。20世紀以降、印象派・ポスト印象派・キュビズム等の台頭により、長らく美術史から忘却され、近年再評価の兆しがあるブグローだが、当時の人々の好みに合ったその作風ゆえ、生前の人気は極めて高かったという。

アッコーライの生没年(1833~1900年)が確かだとすると、ブグローとほぼ同時代に生きたアッコーライが、当時世評の高かったブグローの絵画作品をモチーフに作曲し、同じタイトルをつけた可能性がある。「小川のほとり」というタイトルの後に括弧書きで Idylle と記しているところもそれを強く匂わせる。

photo credit: Isengardt via photopin cc

アッコーライと同時代に生きた作曲家 エドモンド・デデ

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次に「羊飼いの夢想」( Reverie champetre )という曲について。

アッコーライと同時代に生きた別の作曲家の作品の中に、同じ「羊飼いの夢想」( Reverie champetre )というタイトルの曲がある。

作曲者はエドモンド・デデ(1827年~1903年)。やはり歴史の彼方に忘却されつつある音楽家だ。

デデはアメリカの黒人ヴァイオリニストで、指揮者・作曲家であった。

ニューオリンズに生まれたデデは幼少期からヴァイオリンの才能に恵まれたが、人種差別に悩み、フランスに渡る。1857年、パリのコンセルヴァトワールに入学した。

その後、ボルドーに住み、1864年にフランス人女性と結婚。ヴァイオリニスト・指揮者として活躍した。晩年の10年間はアメリカに帰国し、ニューオリンズに住んだ。

1891年にデデが作曲した3分程度の室内楽作品である「羊飼いの夢想」( Reverie champetre )は、アマゾン・コムで販売されているCDではチェロ・オーボエ・ピアノ演奏版である。

試聴で聴ける冒頭部分は、シンプルでメロディアスだ。

デデの作品と同様、アッコーライの忘れられた同名の作品も、田園や牧場の素朴で叙情的な情景をモチーフにする当時流行の芸術的風潮に沿って創られたはずである。

今まで歴史の闇に包まれ、その存在の確証さえ得られなかった作曲家とその作品。そこにわずかであるが照射された光。

アッコーライが時代の芸術的空気を確かに呼吸しつつ楽曲の創作に向かっていた姿が、厚いヴェールの向こうにほの見えてくる。

photo credit: Henry. via photopin cc

(Ⅴ)ある小品が導き出す「仮説」

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1892年作の”Guano”

バックマンがリストアップした9曲以外にも、アッコーライが残した曲がある。

あるひとつの曲のことが、アメリカ版「ウイキペディア」の「アッコーライ」の項目 に記載されていたことがある。(現在はこの記述は消失してしまった)

今日ではほとんど知られていないが、アッコーライが作った“Guano”(1892)という題名のヴァイオリンとトロンボーンのための小品は、パブロ・デ・サラサーテお気に入りのパーティー・ピースであった。

1892年に作られたという“Guano”という曲の楽譜の存在も、このエピソードの出所も、いずれも不明である。

仮にこの曲が1892年に作曲されたとすると、ヴュータンの没年(1881年)以降にアッコーライ作曲の楽曲が存在したことになり、「アッコーライ=ヴュータン」説の反証材料の一つとなる。

華麗な名人芸を誇るヴァイオリニストでありつつ、様々なヴィルトゥオーゾ・ピースを作曲したサラサーテが、パーティー・ピースとしてあえてアッコーライ作の小品を好んで弾いた理由はどこにあったのだろうか。

アッコーライのこの小品は当時それほど有名な曲だったのだろうか。あるいはサラサーテとアッコーライに親交があり、この曲がサラサーテに贈られたものだとしたら・・・

追想の旅の最終旅程は、スペインのバルセロナへと向かう。

photo credit: . SantiMB . via photopin cc

“Guano”とサラサーテ

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「アデニン」、「チミン」、「グアニン」、「シトシン」。

DNA(デオキシリボ核酸)を構成する4種類の塩基。

このうち「グアニン」(guanine)は、海鳥のふんの堆積物から発見された成分として知られている。

海鳥のふんはスペイン語で「グアノ」(guano)と言う。「グアニン」の語源である。

南米のペルー、チリ、ボリビア、エクアドルの諸国は海鳥の一大生息地。これらの国の海岸や離島には膨大な量の海鳥のふんが堆積し、長い年月をかけて化石化していった。

この化石化した「グアノ」(guano)は貴重な肥料となり、人工の化学肥料が発明される前の19世紀~20世紀初頭、ヨーロッパの国々に大量に輸出された。

中南米の諸国は「グアノ」で経済的に潤い、その権益を巡ってチリとボリビアとの間で戦争が勃発したほどだ。

1892年にアッコーライが作曲したというヴァイオリンとトロンボーンのための小品「Guano」は、当時のヨーロッパで肥料として珍重されていた「(鳥の)ふん」を意味していた。

あまり上品とは言えないそのタイトルからして、この曲が音楽家仲間内での戯れか酔狂で作られ、面白がって演奏された様子が思い浮かぶ。

同じスペイン出身であったチェロのパブロ・カザルスによると、サラサーテは「大変愉快な人物で、一風変わったユーモアがあって、いたずらばかりしていた。」(『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』-アルバート.E.カーン / 朝日選書)という。

そんなサラサーテが、「ふん」という題名の小品を宴席の一興に奏でたということは十分にあり得る。

「Guano」を作ったアッコーライはサラサーテの親しい音楽仲間のひとりだったのかもしれない。

photo by Alex Proimos

バルセロナ、夢紡ぐ町

medium_3402536411スペイン、バルセロナ。

カタルーニャ地方の伝統的な自治の精神が息づく町。

19世紀末、そこでは多くの芸術家や音楽家の卵たちがそれぞれの夢を紡いでいた。

1895年、14歳のパブロ・ピカソはバルセロナの美術学校に入学した。以降10年間、この町とパリを行き来しつつ、画家としての基盤を固めていった。創造力と思想のカオスが独自の作品宇宙に結実するとば口に立っていたピカソ。ほどなくして彼の前に「青の時代」が開けてくる。

「カサ・ビセンス」、「グエル邸」、「テレサ学園」・・・今や世界遺産に登録されたこれら独創的な建造物が、バルセロナの街角に次々と出現したのもこの時代だ。構造的合理性と生物学的装飾性とを有機的に結び付けた斬新なデザイン。アントニオ・ガウディの紡いだ夢は、19世紀末から現在、そして未来のバルセロナへと連綿と受け継がれていく。1882年から建築の始まったサグラダ・ファミリアの完成予定は2026年。

パブロ・カザルスが、バルセロナの楽器店でバッハ:無伴奏チェロ組曲の楽譜を発見したのは13歳、1890年のことだ。それまで練習曲としての位置付けしかなかったこの曲の真の芸術的価値を知って驚いたカザルスは、バッハ研究に熱心に打ち込む。一方で彼は、この頃からすでに伝統的なチェロ奏法に疑問を感じ始めていた。後に「弓の王」と呼ばれたこの20世紀最大のチェロ奏者の青春を育んだ町、バルセロナ。

1895年、そんなバルセロナにひとりのベルギー人ヴァイオリニストが移り住んだ。

24歳だった。

photo credit: Serge Melki via photopin cc

(Ⅵ)バルセロナのベルギー人ヴァイオリニスト

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マシュー・クリックボーム

パブロ・カザルスの他にも、後に世界的な名声を獲得するスペイン人演奏家や作曲家が修業の日々を送っていた町、バルセロナ。

ベルギー人の彼も、芸術的な創造と刺激に満ちたこの町で、夢を紡いだ演奏家のひとりであった。

彼の名は、マシュー・クリックボーム(1871~1947年)。ウジェーヌ・イザイの高弟で、「イザイ弦楽四重奏団」のセカンドヴァイオリンを1899年まで務めた。(その後は、バルセロナでの活動が本格化したため、退団している。) イザイ:無伴奏ヴァイオリンソナタの第5番はクリックボームに献呈されたものだ。

クリックボームは演奏活動と並行し、ヴァイオリンの指導と奏法研究に取り組んだ。ベルギー帰国後はブリュッセル音楽院で教鞭を執り、1920~30年代に数多くのヴァイオリン曲の楽譜校訂を行った。

1930年ショット版のアッコーライ:協奏曲イ短調の校訂は彼の手によるものである。

クリックボームの生れ故郷は、ベルギーのヴェルヴィエである。

ヴュータンと同じ、水の都ヴェルヴィエ出身の彼が、スペイン・バルセロナに渡って、当地の音楽家たちと親交を結ぶ。

当時、まさに全盛期にあったスペイン人ヴィルトゥオーゾ、サラサーテ。そのお気に入りのパーティーピースが、アッコーライの曲であったという事実。

そして、クリックボームはアッコーライの協奏曲の楽譜校訂を行っていた・・・

今まで当て所もなく手繰り寄せていた追想の糸の幾本かが、クリックボームというヴァイオリニストの周辺で繋がりを見せ始めた。

クリックボームとスペインの音楽家

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マシュー・クリックボームはバルセロナに移住した直後から、スペイン人音楽家たちと数々の室内楽コンサートを行った。

当時30歳だった作曲家・ピアニストのエンリケ・グラナドス(1867~1916年)とのデュオ、20歳のパブロ・カザルスを加えたトリオ。クリックボームがイサーク・アルベニス(1860~1909年)を「最良の室内楽ピアニスト」と称える手紙を書いたのもこの頃だ。これら後に偉大な足跡を残す若きスペイン人音楽家達と盛んに交流していた様子が窺える。

クリックボームはヴァイオリン学校を主宰しながら、1897年にバルセロナに「フィルハーモニック・ソサエティ」を設立した。バルセロナにおける室内楽の振興を目的としたこの「ソサエティ」を根拠地に、彼は数多くの演奏会を催した。同年には、第1ヴァイオリン:クリックボーム、第2ヴァイオリン:ジョセフ・ロカブルナ、ヴィオラ:ラファエル・ガルベス、チェロ:パブロ・カザルスで「クリックボーム弦楽四重奏団」を結成。グラナドスが1904年までに、この「ソサエティ」で25回の公演を行ったという記録もある。

その頃、アッコーライ作の「Guano」を好んで演奏したというパブロ・デ・サラサーテは50歳になっていた。活躍の舞台は世界中に広がり、すでにヴァイオリニスト・作曲家としての地位と名声を不動のものとしていた。

クリックボームが残した数少ない足跡には、そんなサラサーテとの共演はもちろん、2人の直接の交流を示す事実を発見することはできないが、「クリックボーム弦楽四重奏団」のメンバーであったカザルスはサラサーテのことをよく知っており、その風貌やユニークな振る舞いについて、後の回想録で詳しく描写している。

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サラサーテとの“接点”

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サラサーテがパーティーピースとして好んで演奏した“Guano”。

この曲がアッコーライによって作曲されたのは1892年とされる。

その頃、クリックボームはスペインとの関わりを深め、1895年にはバルセロナに移住している。

従来、根拠が今一つ不確かな「ヴュータン=アッコーライ」説が信じられてきたが、ヴュータンと同じヴェルヴィエ出身で、後のブリュッセル音楽院教授という立場も同じクリックボームこそが、実はアッコーライだったのではないか?

クリックボームの生没年は1871~1947年である。アッコーライのイ短調協奏曲の作曲年が1868年という点では辻褄が合わないようであるが、この曲の楽譜の出版年から言って、作曲年が1890~1900年代初頭であったとしても不自然ではない。

当時クリックボームは、グラナドスやカザルスと共にスペイン各地で演奏活動を行っていた。すでにスペイン人ヴィルトゥオーゾとして著名だったサラサーテとの間に何らかの接点はなかったのだろうか。

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サン・セバスチャン、カジノの夜

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パブロ・カザルスは次のように回想している。

「(サラサーテは)ときどき友人のバイオリニストのエンリケ・アルボスとチェリストのアグスティン・レビオを連れて、私が夏によく弾きに行っていたサン・セバスチアンにあるカジノに宿泊しに来た。」(『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』-アルバート.E.カーン / 吉田秀和訳 朝日新聞社)

このカジノでサラサーテは演奏を楽しむ傍ら、奇矯な振る舞いやいたずらをして音楽仲間と大いに盛り上がっていたという。

1897年8月、スペイン北部、バスク地方のサン・セバスチャンにあるこのカジノで、パブロ・カザルスは確かにチェロを弾いた。トリオによる演奏で、ヴァイオリンはマシュー・クリックボーム、ピアノはエンリケ・グラナドスであった。「私が夏によく弾きに行っていた」というカザルスの回想からすると、このトリオはその年以降も度々そこで演奏を行っていたはずである。

カジノでサラサーテとクリックボームが接触していないはずはない。というよりも、ふたりは、カザルスやグラナドスも含め、ごく親しい音楽仲間であり、毎年夏、そのカジノに集まって来るメンバーであったろう。

トリオはカジノでの演奏を終えると、そのまま仲間内のパーティーに突入。宿泊しに来ていたサラサーテらもそこに加わる。

酒を飲み、興が乗ってくる。やおらサラサーテがヴァイオリンを取り出し、「あれをやろうぜ」とクリックボームに声をかける。「待ってました。」と一同。グラナドスがピアノ伴奏をかって出る。

おどけた仕種で、2人が「鳥のふん」を弾き始める。

毎年夏のサン・セバスチャンのカジノの夜は、そのように更けていったのかもしれない。

(Ⅶ)終楽章

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優れた指導者が作った名曲

クリックボームは後年、ベルギーに帰国。出身地ヴェルヴィエにほど近いリエージュの音楽院で教鞭を執った後、活動の場をブリュッセルに移し、ブリュッセル王立音楽院教授となる。

バルセロナを拠点に共に演奏活動を行ったカザルスやグラナドスらが、演奏家あるいは作曲家への道を歩んでいく一方で、クリックボームは自らの天職を教育に見出す。

彼は音楽院での指導の傍ら、ヴァイオリンの技術書や指導書の執筆に旺盛に取り組んだ。同時に楽譜の校訂も行い、その多くがショット社から出版された。

先に紹介したアルベルト・バックマンの『ヴァイオリン事典』には、クリックボームが著した全5巻の指導書「ヴァイオリン 理論と実践」がリストアップされている。1929年、アメリカ・フィラデルフィアで楽譜の出版と輸入を扱う「セオドア・プレッサー社」は、「クリックボーム・メソッド」との見出しで、この書がヴァイオリン指導者にとって必携であるという広告記事を出している。

クリックボームはこの頃、すでにブリュッセル音楽院の主任教授の地位にあり、当代屈指の指導者としての名声を得ていた。同書のエッセンスを抽出した「ヴァイオリンのテクニック」(全3巻)は、フランス語・ドイツ語・英語・スペイン語版が出版され、欧米各国の指導者や学習者の間に普及した。

彼はこれらの指導書や教本のために、多くの練習曲や二重奏曲を作曲している。それは過去のヴァイオリン曲からの引用・編曲に留まらず、自らの創作によるものもあったという。

校訂版楽譜のほうは、1926年にナルディーニの協奏曲、1928年にシュポアの協奏曲、1934年にルクーのソナタ等を出版している。

また1934年には、フルニエらを育てたチェロの名伯楽、パリ音楽院教授のポール・バゼレールが作曲した「フランス組曲」のヴァイオリン編曲版の楽譜を出版している。

優れた演奏家であり、且つそれ以上に指導者としての名声を博したバゼレールはクリックボームのかつての盟友カザルスとも親しかった。そのチェロの佳曲のヴァイオリン版を編んだクリックボームには、おそらくバゼレールと同じ道を歩む身としての特別な思いがあったことだろう。

優れた指導者であり、かつ優れた曲を生み出す作曲家でもあること・・・

photo credit: Luke,Ma via photopin cc

「夢」の葬送

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ドラマチックな導入部と哀愁を帯びた印象的な旋律。

技巧の表出は控え目で、あくまでもシンプル。だが、それゆえにこそ奏者の表現力は何の装飾も施されず、ありのままに発現される。練達の度合いによって、演奏効果は幾何級数的に高まるが、同時にそれは、協奏的楽曲への水先案内として、意図せずとも自ずから教育的でもあった。

音楽性と学習性と。

2つの価値が幸福にも共存するその協奏曲は、人生の岐路に立ったある一人の若きヴァイオリニストによって生み出されたものであったのかもしれない・・・

1930年、59歳になったブリュッセル王立音楽院主任教授は、ザイツやリーディングの曲と並んで、当時学習者に広く愛奏されていたある曲の楽譜校訂の仕事を引き受ける。

それは紛れもなく、まだ20歳代であった彼自身が作曲し、アッコーライのペンネームで発表した協奏曲第1番イ短調であった。

この協奏曲は、彼が演奏家あるいは作曲家か、指導者かの狭間で悩み、揺れ動いていた頃に作曲したものだ。当時、これを含むいくつかの協奏曲と小品とで作曲家アッコーライの名は知れ渡ったが、彼はその後自分の天職を教育活動に求める決心をし、ベルギーに帰国。本格的に指導者としての道を歩み始めることになる。

それは演奏家あるいは作曲家になりたいという、自らのもう一つの夢を断念することを意味していた。

1900年8月19日、アッコーライは67年間の生涯を閉じたとされる。そのようにして彼は自らの夢の葬送を果たしたのだろう。

しかしアッコーライの作品の中で、協奏曲第1番イ短調だけはその後、思わぬ光彩を放つ。発表された当時から、この協奏曲はとりわけ学習者や指導者の心を強く捉え、演奏会用ピースとしてよりも、学習者用ピースとして長く愛奏され続けるのである。

あたかも演奏家・作曲家であることを捨て、指導者に徹しようとした彼の人生の変転をなぞらえるように。

photo credit: Flikkesteph via photopin cc

コーダ-永遠の協奏曲

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優れた演奏家であり偉大な指導者であったマシュー・クリックボーム。

彼に捧げられたイザイ無伴奏ソナタ第5番 第1楽章「オーロラ」、第2楽章「田舎の踊り」。

疾駆する音が織りなす世界は、民族音楽風のモチーフを確然と底流に宿す。イザイは自らの弟子の生き方に、変わらない強い意志の存在を認めていたのだろうか。

水面を流れていく風景。一方で底に留まる自分の中の何物か。透き通ってある、変わらない何物か。

カタルーニャに惹かれ、室内楽に惹かれ、作曲を志し、一方でヴァイオリンの指導者でもある自分がここにいる。

心のままに創作したこの曲は、いつも見ていた川のように多彩な風景に彩られながらも、透明だ。

静謐な確固とした意志の佇まいは、川底で徐々にきらめきを帯びる。

やがて伸びやかな音楽が帳を開ける。

美しい流れが旋回し、律動し、奔流となる。

それから、100年が経った。

アッコーライ:協奏曲第1番イ短調は、今もなお、ヴァイオリン学習者の心を捉えて離さない。

きっと、この先も、ずっと。

photo credit: Flikkesteph via photopin cc

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 弦だとか弓の毛だとか、そんなことを意識しているようじゃだめなんだ。ヴァイオリンは弾くものじゃなく、歌うものだ。

レオポルド・アウアー(List

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