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あのヴァイオリニストも、みんな悩んで大きくなった

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いかに天賦の才があったとしても、それを発現させ、音楽表現へと結実させていくには、たゆまぬ努力が必要です。

例えば神童は、一生そのまま神童であり続けることなどできません。

才能の開花が早ければ早いほど、音楽家として成長するための高い壁に、小さいうちから早々とぶち当たることになります。

早熟は時に努力を置き去りにし、プライドの高さがそれに拍車をかけることもあります。

そして壁を乗り越える意志の力が働くには、まだまだ自我が未成熟です。

となると、神童ほど悩みは深いということになるのかもしれません。

悩み、迷い、耐え、そして努力し続けた者だけが、栄光をつかむ。

「みんな悩んで大きくなった。」

ヴァイオリニストたちのさまざまな「悩み」に迫ります。

※本稿では敬称を省略させていただきます。

photo by File:George Schlegel06.jpg – Wikimedia Commons

先生の指導が時に「いじめ」に思える

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諏訪根自子(すわ・ねじこ)は3歳で小野アンナの弟子であった中島田鶴子に師事し、その後小野アンナの指導を直接受けるようになりました。諏訪は小野アンナにとって初歩から指導する初めての弟子でした。

「その熱心さはむしろ根自子さんよりお母様の方が強かった」と小野アンナ自身が回想する母の強力なサポートもあって、諏訪は小野アンナの厳しい指導により、その類まれな才能を開花させていきました。

もちろんお稽古ごと。どのような才能を持っていたとしても、次のようなエピソードがあるのは、この世界の常です。

「しかしこんなに熱心だった根自子さんもおうちでは、時々すねてヴァイオリンをだしたり、しまったりしてなかなか復習しなくて困ったこともあったと、根自子さんのお母様から大きくなってから伺いました。」(諏訪根自子「小野アンナ先生のこと」-小野アンナ記念会編『回想の小野アンナ』音楽之友社-)

1927年(昭和2年)7歳の諏訪根自子は、父の友人の紹介で、一条公爵家の園遊会でヴァイオリンを披露しました。

そして、1929年の小野アンナ門下生発表会における演奏で、一躍「天才少女」との評判が広がり始めます。

1931年11歳の時、朝日新聞が「ヴァイオリンの天才少女現る。ジンバリストを驚した目白の根自子ちゃん。」との見出しで記事を掲載。そして翌1932年4月、諏訪は12歳で初リサイタルを開催します。

順風満帆に見えるその歩みの一方で、子どもらしい怠け心が顔を出すこともしばしばでした。

「稽古は誰もそうでせうが、子供の内はとりわけ厭なものです。先生の慈愛にみちた御指導も、そのまま人いぢめのように思われた事も度々でした。或る時先生は、怠けてなかなか進歩しない私に、『ネヂコさん、あなたは立派なヴァイオリニストになりたくないのですか?』と聴かれました。

そして尚もお言葉を続け仰有るには、『大きくなって急に立派なヴァイオリニストになるのは仲々むづかしい。今から一生懸命勉強してこそ、立派なヴァイオリニストになれるのです。』とおさとし下さいました。」(引用同上)

photo credit: rittyrats via photopin cc

「天才少女」像と現実とのギャップに悩む

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諏訪根自子の演奏を聞いて驚嘆した駐日ベルギー大使の計らいもあり、1936年(昭和11年)1月、16歳の諏訪は文部省の派遣留学生として、単身ベルギーに渡航することになります。

この時、朝日新聞は日比谷公会堂で「渡欧送別独奏会」を主催しました。

マスディアが作り上げた側面もある「天才ヴァイオリニスト諏訪根自子」像。

諏訪は留学先のベルギーで、現実とのギャップに早々と気づかされることになります。

諏訪の回想より。

「私、親指を立てて、ヴァイオリンを弾きますでしょう。小さい頃から弾いていたから、無理が行ったのかもしれないんですけど、親指が昔からよくいうマムシでね。力が入らないんですよ。ショーモン先生にすぐそれを指摘されて、それはショックでしたね。ヴァイオリン演奏では親指が先導して指のポジションをきめなくちゃいけないからこれには困った。」(深田深田祐介著『美貌なれ昭和』 文藝春秋)

photo by 663highland

イザイコンクールを予選から全部聴いて驚く

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諏訪がベルギーに留学した翌年1937年(昭和12年)、ブリュッセルで第1回イザイ・コンクール(エリザベート王妃国際コンクールの前身)が開かれました。

その年の第1位はダヴィッド・オイストラフ。2位を除く1位~6位までがすべてソ連からの参加者で占められていました。

「私も日参をして予選から全部聞いたんですよ。この年のオイストラフの演奏はほんとうに圧巻でしたね。どうしてあんなふうに弾けるんだろうって、ショーモンさんのお弟子さんたちと話していたら、オイストラフの勉強の方法は特別だっていうんですね。ひとつのパッサージュを弾いてみて、次にそれを逆に弾いてみるんだっていうんです。つまりドレミと弾いたら、次にミレドと弾いて練習するというんですよ。それから、このやりかたを真似してみて、ずいぶん勉強になりましたね。」(深田祐介『美貌なれ昭和』)

諏訪は文部省の派遣留学期間が切れた1938年以降も欧州に留まり、ヴァイオリンの勉強を続けることを切望します。大倉商事パリ支店の大倉喜七郎が保証人を引き受けてくれたことで、諏訪は何とか留学を継続することができました。

そして当時、フランスに留学中のピアノの原智恵子の紹介もあり、諏訪はパリでユダヤ系ロシア人のカメンスキーに師事することになります。

戦雲急を告げるヨーロッパ。間もなく第2次世界大戦が勃発するのですが、諏訪のヴァイオリンに対するひたむきな情熱はどんどん高まっていきました。

1日6時間の練習。「けいこ負けするぞ」と周囲から言われるほどの練習の虫だったといいます。

日本でもてはやされた「天才少女」像と現実のギャップを埋めるただ一つの道は、けいこ。けいこしかない。

諏訪は戦争に翻弄される時代状況など一顧だにせず、ただヴァイオリンの道だけに邁進していきました。

photo by Zinneke

オーケストラに在籍中も、基礎からやり直し

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ひと通り出来上がったものをすべて壊して、一から作り直す。

何事においてもこれほど辛いものはありません。

出来上がってきたものへの執着があったり、壊してゼロから作り上げるものへの確信がない場合は尚更です。

さらには骨格が固まり身体の自由度がなくなる壮年期になると、別の新しいものを無理なく自然に定着させることは期待できず、スクラップ&ビルドの道のりはさらに長く厳しいものとなります。

よほど意志が強くないと、途中で挫折してしまうことになります。

三瓶詠子(みかめ・えいこ)が小野アンナ門下に入門したのは、20歳を過ぎ、すでに東京フィルハーモニー交響楽団に在籍している時でした。

初レッスンで、現在の実力を見るために一通り曲を弾かせたあと、小野アンナは基礎からのやり直しを三瓶に命じました。

以下は三瓶の回想。

「最初から考えてもいないことをさせられた。まずボーイングをはじめから直された。弾く、というより体操のようなことで、数週間して音のつなぎ方、弓の返し方、移弦、力の抜き方等、当時としては全くユニークな方法と思われることを徹底してさせられた。

ポジションの移動、難しいパッセージの練習方法、重音のとり方、左指を強くする方法等、厳しかった。奏法のテクニックは順序よく、無駄なく整理されていて、それまでは何も知らず、余りにも考えずに漠然と弾いていたことに気が付いて、ただ夢中で教えられたことを消化しようと努力して何か月か過ぎた。

曲はなかなかいただけなくて、専ら、スケールとエチュードばかり。」(三瓶詠子「アンナ先生を偲ぶ」-『回想の小野アンナ』所収-)

三瓶詠子は1945年~55年まで東京フィルに在籍。やがて小野アンナの代理で門下生への指導を行うようになりました。

1962年、桐朋学園大付属「子供のための音楽教室」講師。1974年、同大学講師。加藤知子らの指導者として知られています。

photo credit: codersquid via photopin cc

ステージでは必ずあがってしまう

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東京芸大名誉教授、浦川宣也。

小1で小野アンナに師事。1948年(昭和23年)、小3の時の門下生発表会でヴィヴァルディの協奏曲イ短調を、翌年の発表会では早くもメンデルスゾーンの協奏曲を弾きました。

驚異的な上達ぶりを示した浦川でしたが、意外なことで悩んでいました。

「私はステージに出ると必ずあがりますが、それは子供のときからずっと同じです。あるとき、母がアンナ先生に『うちの子はあがってしようがありません』と申しあげたことがありました。すると先生は、『あがらなければ演奏家ではありません』とおっしゃったのです。

私は子供心に『あがれば上手に弾けないのに』と不思議に思いましたが、それ以来安心して、今にいたるまであがりながら演奏しています。」(浦川宣也「練習に明け暮れた日々」-『回想の小野アンナ』所収-)

photo credit: idea-saras via photopin cc

練習が足りないと厳しく叱られる

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さほどの苦労や努力をしなくても、弾けてしまう。

しかしそのこと自体が悩みとなってしまうこともあります。

曲をひと通り弾けてしまうと、細部の完成度を上げることにはあまり興味が持てなくなるものです。自分ではうまく弾けていると思っているところに、ことごとく先生の注意の矢が飛んで来る。「一体どこがいけないのだろう」と思ってしまいます。

-完成度を上げるための練習なんか億劫だ。もっと別の曲、新しい曲を弾いてみたい。そのほうが楽しい。

しかし指導者は、子供心の赴くままを決して許しはしません。

将来の演奏家としての基礎を早い段階で形作っておくために、より細部を、そしてより高度なことを厳しく求めようとします。

「先生にはしょっちゅう、練習が足りないと叱られました。何を何分、何を何時間練習したか書いていらっしゃいと言われて、レッスンのたびに練習時間の記録を先生に出さなければなりませんでした。

およそ半年くらいそういうことが続いたと思います。時間を水増しして『これだけ練習したらもっと良く弾けるはずです』と髪をひっぱられたこともありました。」(浦川宣也「練習に明け暮れた日々」-『回想の小野アンナ』所収-)

photo credit: Luz Adriana Villa A. via photopin cc

ヴァイオリンを休めるのは発表会の翌日だけ

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ひとつの曲を仕上げることの難しさ。

各部の難所・課題をクリアーしようと必死で練習する。しかし、クリアーできたかに思えたら、また次の新しい課題が生じる。次から次へと。際限なく・・・

発表会までの期間は限られている。立ちはだかる壁。

やっとの思いで届きそうになったバーを先生は無情にもさらなる高みへと引き上げる。「あなたはまだ練習が足りないのよ」と。

「母も先生におとらず熱心でしたから、毎年の門下生演奏会の前は特に大変でした。演奏会の日と曲目がきまると、なにか自分が歩いていく道のはるか彼方に大きな鉄板のようなものが立ちはだかったようで、それだけに演奏会の終わったあとの解放感は格別でした。

演奏会の翌日だけは練習しないでよいことになっていて、朝から一日中交通博物館にいたこともあります。」(浦川宣也「練習に明け暮れた日々」-『回想の小野アンナ』所収-)

※余談だが、浦川少年のような鉄道大好き少年たちの「夢の国」だった交通博物館は千代田区神田須田町にあったが、2006年5月14日、70年の歴史に終わりを告げ、閉館。後継施設として翌2007年に、さいたま市大宮区大成町に鉄道博物館が開館した。

photo by Naocchi

10歳で有名門下に、しかし・・・

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8歳のクリスマスの夜、父がヴァイオリンと弓をプレゼントしてくれました。

「どうだ、やっと手に入れたぞ」と言わんばかりに、父の顔は得意満面でした。

1948年(昭和23年)。おけいこに通ったのは、「才能教育研究所」東京支部の第1号教室。

彼女のヴァイオリンケースは、母がグリーンの厚地の和服をほどいて、一針一針手で縫ってくれた布の袋でした。

学校から走って帰宅すると、彼女は大好きなヴァイオリンの練習を始めます。

「ユリ子、オヤクメシキではダメよ!」

母の大きな声が飛んできて、彼女は弓を止めます。

「お役目式」で、ただ義務のように弾いているだけでは決して上達しないという意味です。

一生懸命に心を込めて弾いているのか、ただおざなりに音符だけをつなげて弾いているのか、音楽家でもない母は見事にそれを聴き分けているのです。

8歳という遅咲きのスタートながら、彼女は2年足らずで、教室のトップクラスに駆け上がります。新しい曲を次々に弾ける喜びが、上達を後押ししました。

しかし父は、その現状に満足していませんでした。本格的にレッスンを受ける師を懸命に探し、あらゆるつてを辿っていきます。

父とふたりで、鷲見三郎先生の自宅の玄関に立った時、彼女は名伏しがたい心細さに襲われることになります。

「レッスン室からは、私には音符の想像もできないほど難しそうなパッセージの曲を、誰かがスラスラ弾いているのが聞こえてくる。

やがてそのレッスンが終わって、部屋から出てきた男の子を見て、私は自分の目を疑った。なんとその子は、私よりもずっと年少に見えたのだから。」(黒沼ユリ子著『ヴァイオリン・愛はひるまない』 海竜社)

続いて出てきた鷲見先生は和服姿で、かけたメガネの奥には、どんなことでも見抜かれてしまいそうな鋭い目が光っていました。

ヴィヴァルディの協奏曲ト短調を鷲見先生の前で弾きました。

先生が尋ねます。

「エチュードには何を?」

彼女は、「エチュード」という言葉の意味さえ理解できませんでした。

さらに追い討ちをかけるように、鷲見先生は言います。

「セブシックは何もやっていないのですか。」

もちろん「セブシック」も初耳でした。

photo credit: mikeossur via photopin cc

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 弦だとか弓の毛だとか、そんなことを意識しているようじゃだめなんだ。ヴァイオリンは弾くものじゃなく、歌うものだ。

レオポルド・アウアー(List

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