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「神童」の肖像-戦前・戦中期の “スリートップ“

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幼少時から始めることが必須とされるヴァイオリンは、資質の開花と技術の完成に至る期間が驚異的に短い、いわゆる「神童」たちが登場しやすい楽器である。

国内コンクールの最高峰「日本音楽コンクール」への出場可能年齢にもそれが現れている。ピアノ部門は17歳以上、声楽部門は20歳以上であるが、バイオリン部門は15歳以上。中学3年生での出場が可能である。

以前はこの年齢制限がさらに緩やかで、戦後の一時期には13歳で出場できた時期がある。さらに戦前には年齢制限がなく、例えば江藤俊哉、巖本真理、辻久子らは11~12歳で「音楽コンクール」(旧「日本音楽コンクール」)に出場し、いずれも1位になっている。

戦前のヴァイオリンの技術・演奏レベルを現代のそれと単純に比較することはできないが、その時代時代の水準の下でしのぎを削るというコンクールの相対評価の特性に注目した場合、若年の俊英が驚くべき水準の演奏を行いコンクール入賞を勝ち取るという構図は、当時においてこそ顕著であったことは想像できるだろう。

戦前・戦中、そして戦後暫くの間は、そのように突出した才能の「神童」が殊のほか光彩を放った時代であった。

全体として技術レベルが大幅に向上した現代においても「神童」は存在するが、その輝かしさは昔日の比ではない。

現代はお稽古事としてのヴァイオリンが広く普及し、裾野が広がった。「弦王国」と言われる日本の礎がそこにあるのは確かだが、一方でヴァイオリン以外の人生設計の選択肢も増え、ヴァイオリン以外に「やるべきこと」(勉強など)、さらには「やりたいこと」(遊び)の数も多いのが現代である。

仮に資質があったとしても、ヴァイオリンに「打ち込む」ことを阻害する要因がいくつも存在するのだ。

しかし、それは以前の時代から見たら幸福な阻害要因ばかりである。

かつて戦争へと突入し、空襲の危険が迫ってヴァイオリンどころではなくなってきた時代にあっても、周囲の白眼視に耐えつつ、ヴァイオリンに打ち込むことを至上の徳とし、あらゆる努力を怠らなかった人たちがいた。

戦後、海外に渡航することがまだ容易ならざる時代に、一般には恐怖のイメージが蔓延していた社会主義の国に単身留学し、ヴァイオリンを学ぶことを強く希求した人たちがいた。

あらゆる教育環境が整っている現代から見て、とても考えられないような苦労と努力をしてヴァイオリンに打ち込んだ先人たちがいたのである。

戦前から戦中・戦後の時代は「神童」の時代であると同時に、そのような強靭で気高い志をもった「弦王国」の開拓者達の尊い努力と闘いの時代でもあったのだ。

この稿ではそのような開拓者達の志の軌跡を辿る。(※敬称は省略します)

photo credit: pellaea via photopin cc

「弦鳴りやまず」-辻久子、11歳でデビュー

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太平洋戦争開戦翌年の1942年(昭和17年)。緒戦の勝利で日本国内がかりそめの喜びに包まれていた頃、音楽界では2人の天才少女がヴァイオリニストとして本格的な演奏活動を行っていた。

ひとりは1926年(大正15年)生まれの辻久子。

幼少期より父親の辻吉之助による厳しいスパルタ教育を受け、11歳でバッハのシャコンヌ、ブルッフのヴァイオリン協奏曲、サラサーテのチゴイネルワイゼンを弾きデビューした。12歳で「第7回音楽コンクール」で第1位ならびに文部大臣賞を受賞。

辻久子と言えば、筆者は1984年(昭和59年)に辻久子をモデルにした『弦鳴りやまず』というテレビドラマがTBS系列で放送されていたことを思い出す。中村嘉葎雄演じる父吉之助が、娘の久子を「あかん、あかん、久子、あかん」などと厳しく叱りつけながらレッスンする場面が強く印象に残っている。成長した久子役は樋口可南子であった。

当時主に大阪を演奏活動の拠点にしていた辻をデュオのパートナーに選び、東京でのリサイタル開催に導いたのはピアニストの原智恵子であった。(ドラマでは岸田今日子が演じていたと記憶する。)

原は1928年(昭和3年)13歳でフランスに留学したピアノ界の神童。1937年(昭和12年)の「第3回ショパン・コンクール」では、250名もの欧米の並み居る強豪を押しのけて、本選に進出(79名)。東洋の若きピアニストの弾くショパンに聴衆は魅了され、上位入賞は逃したものの、「聴衆賞」を受賞した。

戦前の日本音楽界にとってそれは驚異的な偉業であった。

photo credit: nathanrussell via photopin cc

16歳、四大協奏曲を2日間で独奏しきる

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原は第2次世界大戦の欧州の戦火を避け、1940年(昭和15年)に日本に引き揚げてきていた。

その原が大阪で辻の演奏を聞き、「自分と同じような芸術家としてのテンペラメント(芸術家気質)」(石川康子『原智恵子 伝説のピアニスト』(KKベストセラーズ)より)を感じ、辻をデュオのパートナーに選んだのだった。

辻はたびたび上京して、原の家に泊まりこみ、合奏の練習をしたという。

1942年(昭和17年)1月21日、日比谷公会堂にて、ヴァイオリンとピアノのソナタの演奏会が開かれた。ヴァイオリンは辻久子(15歳)。ピアノは原智恵子。曲はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番『クロイツェル』、モーツァルトのソナタ・ハ長調、フランクのヴァイオリン・ソナタなどであった。

辻は同年3月には中国に渡り、リサイタルを開催。再び国内に戻ると、10月16日~17日に、「辻久子四大協奏曲の夕」と題して、ローゼンシュトック指揮の東京交響楽団と共演。ブラームス、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ベートーヴェンの四大ヴァイオリン協奏曲を2日間で演奏するという快挙を成し遂げている。

娘の演奏会では必ず観客席に紛れ込み、演奏の細部を入念にチェックしつつ、観客の反応や評判に聞き耳を立てていたと言われる父吉之助だが、この時ばかりは16歳の愛娘の演奏を前にこの上ない喜びにひたっていたことだろう。

photo credit: Bahman Farzad via photopin cc

満州国フィクサー甘粕正彦に言い放つ

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辻は前年の1941年秋に満州に渡り、リサイタルを催していた。

その満州に辻を招待したのは、満州建国を陰で支えた満州映画協会理事長の甘粕正彦である。

この時の歓迎パーティーの席でヴァイオリン演奏を披露した辻に対し、甘粕は祝儀のポチ袋を渡そうとした。ところが、恐いもの知らずの辻が「そんなもん、いりません」とはねつけてしまった。周囲はどうなることかと固唾を飲んだという。

甘粕正彦と言えば、憲兵大尉であった関東大震災直後、無政府主義者の大杉栄らを殺害した事件の首謀者として逮捕・起訴され、懲役刑を受けた悪名高き人物である。その後3年で出所してフランスを経て満州に渡った甘粕は、軍籍を剥奪された一民間人として、満州国建国に深く関与・暗躍していく。

この暗い過去を背負った謎の多い人物、満州国の文化・芸術を裏で牛耳っている強面の実力者に向けた辻の強烈なひと言であったが、甘粕は何も言わずに祝儀袋を引っ込め、「以来、この15歳のプライド高き少女をいっそうひいきにしたという。」(『王道楽土の交響楽』(岩野裕一著・音楽之友社)より)

辻は終戦5か月前の1945年3月にも満州で公演している。この時は「全満合同大演奏会」と銘打たれ、ハルビン交響楽団と新京交響楽団の合同オーケストラを朝比奈隆が指揮した。ハルビン、新京、奉天、大連の四都市で、ヘートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を共演した。

辻久子、この時19歳。

photo credit: lowhorizon via photopin cc

巖本真理、11歳で音コンを制す

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この時期活躍したもうひとりの若き女流ヴァイオリニストは、辻久子と同年(1926年・大正15年)生まれの巖本真理である。

祖父はクリスチャンで明治女学校の創立者の巖本善治、祖母は『小公子』の翻訳者である若松賎子(しずこ)(本名は巖本嘉志子)。父巖本荘民(まさひと)はアメリカ大使館勤務、母マルグリートはアメリカ人で戦後、東京教育大等で教鞭をとった。

巖本真理はメリー・エステルという本名を持っていたが、敵性語や片仮名語が排除された当時の時代状況の中にあって、日本名の真理に改名している。

戦前から有望なヴァイオリニストを多数輩出していた小野アンナ門下で、1937年(昭和12年)「第6回音楽コンクール」で第1位を獲得し、1939年(昭和14年)13歳で初リサイタルを開いた。

1942年(昭和17年)1年間における巖本真理16歳の演奏活動は、当時のクラシック音楽のメッカである日比谷公会堂を拠点に、東京交響楽団定期公演等における協奏曲独奏、ピアノとの共演など、実に9回にも及んでいる。巖本がすでに当時の楽壇を背負って立つ存在であったことを物語っている。

この年演奏した曲は、ベートーヴェンの協奏曲とソナタ第8番、ブルッフの協奏曲、ヴィエニヤフスキの協奏曲第2番、ラロのスペイン交響曲、サラサーテのチゴイネルワイゼンなどであった。

photo credit: HIRATA Yasuyuki via photopin cc

音コン出場前後の小野アンナのレッスン

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巖本真理は6歳から小野アンナの指導を受けていた。

16歳で多彩な演奏活動をこなす完成されたヴァイオリニストといえども、その過去がすべて順風満帆なものとは限らない。

小野アンナは次のように回想している。

「巖本さんはヴァイオリンの練習が嫌いで、二十分か三十分くらい弾いてはやめてしまい、一時間も練習した日は自慢するという風でした。私はコンクールに出たかったら、せめて日に三時間は練習しなければいけない、と叱り、それから約束を守ってきちんと練習するようになって、段々うまくなったのです。」

その「音楽コンクール」出場前後のことを、巖本真理は次のように振り返る。

「最も鮮明な印象は、私の十ニ、三の頃のこと、コンクール出場前後である。

私は夢中になってブルッフのコンチェルトをさらっている。先生は本箱の中を片づけたり、亡くなったお子さんのお写真のかざってある棚をきれいにお掃除をしたりしながら、「もう一ぺん」と何度もおっしゃる。

それが毎々のことであって、子供心にも、私は幾度かふて腐れて、しまいにはやけくそで弾きつづけるのであった。しかも先生は少しも怒らずに、全く親身にこのわがまま娘の面倒をみてくださった。

先生のお姿が見えなくなる。すると間もなく、両腕に出来たてのアンパンを抱えて帰って来られる。それがお茶の合図である。私はホッとして、今までの不機嫌は何処かへ飛んで仕舞う。」

*(いずれも『回想の小野アンナ』(小野アンナ記念会編 音楽之友社)より引用。)

巖本真理は戦後、1946~50年まで東京音楽学校の教授を務めた後、アメリカに渡りジュリアード音楽院でパーシンガーに師事、エネスコの薫陶も受けた。

帰国後もソロ活動を続ける一方、1964年(昭和39年)「巖本真理弦楽四重奏団」を結成して精力的な活動を展開。日本の室内楽発展の礎を築いた。

photo credit: vk1962 via photopin cc

宮本百合子が聴いた巖本真理の音色

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1950年(昭和25年)1月1日、ラジオから流れてきた巖本真理のヴァイオリンの音色を聞いた宮本百合子は次のような感想を書いている。

「正月元日に巖本真理のヴァイオリン独奏をきいた。そして、その力づよくて純潔な音色からつよい印象をうけた。

シゲッティというヴァイオリンの名手が来朝したとき、もう地下活動をしていた小林多喜ニがこっそりききに行って、ひどく感動したという話をきいたことを思い出したりした。

そしたら、新聞に、巖本真理が半年ほどアメリカ、カナダの演奏旅行に出発するという記事がのっていた。」

ヨーゼフ・シゲティの来日は1931年と32年。芸術の神髄に迫る演奏をすると国内でも殊の外評価が高かった巨匠シゲティの来日は、音楽好きな文学者や芸術家などの知的エリート層の間で当時大変なブームを巻き起こした。

弾圧の手をのがれ潜伏中の小林多喜ニは、わが身に迫る危険を顧みず、変装してコンサート会場に現れ、貪るようにシゲティを聞いた。

そして日本人とアメリカ人のハーフとして生を受けた巖本真理は、「鬼畜米英」」の時代をものともせず、ヴァイオリン演奏に全身全霊をかけて生き抜いた。

音楽への熱き希求は人をしていかなる難関や危険をも乗り越えさせるものなのだろう。

*引用部分は宮本百合子「手づくりながら」より(『宮本百合子全集 第十七巻』(新日本出版社)を定本とした「青空文庫ファイル」より引用。)

photo credit: www.metaphoricalplatypus.com via photopin cc

画家 藤田嗣治の「不安」

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巖本真理の演奏に触発された宮本の連想は、その前年(1949年)に渡仏した画家藤田嗣治の「不安」に及ぶ。

「わたしの心の火に、藤田嗣治のおかっぱの頭が浮かんだ。

彼の出発は、何だか特別な感じだった。飛行機でとび立つその日まで、ひたかくしにかくされていて、その日にとられた写真での彼の表情は、まるで一刻も早く飛行機のエンジンがまわりだすのを待ちかねている風情だった。

その顔に不安があった。

彼に「アッツ島玉砕」という凄惨きわまりない絵がある。彼の年とったおかっぱの顔にある不安をながめて、彼はあの絵に追われているという感じがした。

その絵が自分をつかまえないうちに、早く! 早く! そう思っている不安のように思えた。」

モディリアニらとともにエコール・ド・パリの代表的画家として活躍した藤田嗣治(ふじた・つぐはる、レオナール・フジタ、1886-1968)。

“乳白色の肌”の優美な美しさを描出する独特の画風の裸婦像などで、1920年代パリ画壇の寵児となった藤田だが、1940年に日本に帰国してから戦時中は、国策の戦争画を描いたことがあった。

「アッツ島玉砕」もその一枚だが、その作風は宮本が言うように凄惨きわまりないもので、戦争の残酷さをストレートに表現していた。

それは当時の陸軍報道部が要請した写実的な戦争記録画の枠を越える「なにものか」であったはずだ。

しかし戦後、藤田はこの戦争記録画の製作ゆえに、日本美術会からその戦争協力の罪を非難されることになる。

藤田はこのことで日本との決別を決意し、1949年に渡仏。やがてフランスに帰化し、再び日本の土を踏むことはなかった。

宮本は、戦争協力という故なき批判に追い立てられるようにして、不安を抱え、ひそかに渡仏をしようとした藤田の姿を回想している。

この時すでに日本との永遠の決別を決心していたに違いない藤田は、次のような言葉を残してフランスに向かったという。

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ。」

photo credit: MsAnthea via photopin cc

ドイツ占領下のパリに独り残った諏訪根自子

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1939年(昭和14年)9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発した。

藤田嗣治は中南米旅行を経て、1933年から1939年まで日本に帰国・滞在し、その後フランスに戻ってきていた。ところがドイツ軍のフランスへの侵攻が現実のものとなる情勢下、欧州の在留邦人は日本への帰国を急ぐこととなった。

パリ画壇の寵児として人気を博し、フランス社会に根付き、ほとんどフランス人と言ってもいい藤田嗣治であったが、1940年5月に再度日本への帰国を決意することになる。同年6月には岡本太郎や荻須高徳らも日本に帰国した。

1940年6月14日、ドイツ軍はパリを占領した。戦雲急を告げれば、欧州と日本間の船の航行にも当然危険が及ぶ。在留邦人にとっては機会を逃せば、永遠に日本に帰国できないかもしれないという不安は尋常ではなかったであろう。

原智恵子も前述のようにこの年、日本に引き揚げてきていた。また、10歳でパリ高等音楽院に留学していたピアノの安川(草間)加寿子もこの年に日本に帰国していた。

多くの邦人が帰国の途につく中、当時、バリ留学中のヴァイオリニスト諏訪根自子(すわ・ねじこ)は、しかし、次のような強い思いを抱いていた。

「どうしても欧州に残り、音楽修行を成就したい。」(深田祐介著『美貌なれ昭和』(文藝春秋)より)

諏訪根自子は1936年(昭和11年)に文部省の派遣留学生としてベルギーのブリュッセルに渡り、当地の宮廷音楽師であったショーモンに師事。2年後、パリに居を移し、ロシア人のカメンスキーに師事し、1939年にパリでリサイタル・デビューを飾った。

1942年末にはドイツに赴き、精力的に各地で演奏会を行った。クナッパーブッシュ指揮のベルリン・フィル、ワイスバッハ指揮のウィーン・フィルとも共演している。

1944年6月、連合軍がノルマンディに上陸し、ドイツの防衛ラインは完全に崩れた。敗走するドイツ軍と軌を一にするように、同年8月、パリ解放の13日前に、諏訪はパリからベルリンへの逃避行を敢行することになる。

列車での移動中に何度も空襲を受けたが、1943年にドイツ宣伝相のゲッペルスから贈呈されていた1722年製作のストラディヴァリウスだけは片時も我が身から離さず、命からがらベルリンに入ったという。

すでにその頃のベルリンは連合軍の連日の空襲下にあり、ただでさえ危険な状況であった。しかしそのような中でも、スイスの日本大使館員のはからいでスイス各地でのリサイタルが企画されると、ベルリンからスイスまで危険を省みずに移動し、リサイタルを敢行。スイスの各新聞紙上でその演奏を絶賛された。

まさに、「騒然たる時世に刃向うように根自子の音楽への意志は昂揚する」(同書より)のであった。

1945年ベルリン陥落後は、大島駐独大使らと共に連合軍に囚われ、アメリカ本土の収容所に収容された。そして終戦後の1946年、日本に帰国。

想像を絶する苦難の内に、諏訪の10年にわたるヨーロッパ留学は幕を閉じたのである。

photo credit: (vincent desjardins) via photopin cc

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 ヴュータンは壮大なスタイルで書きました。その音楽はどこをとっても豊かでよく響くものです。自分のヴァイオリンをよく鳴らそうと思うなら必ずヴュータンを弾いてほしいですね。

ウジェーヌ・イザイ(List

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