「何とか弾けてしまう」罠
「学生音コン」の中学校の部の課題曲が、バッハ:無伴奏とヴュータン:協奏曲5番1楽章(カデンツァ付き)だったとします。
ヴュータンの協奏曲は、もともとブリュッセル音楽院の卒試用に書かれたもので、当然のことながらバッハの時代には知られていなかったテクニックが散りばめられています。
また音楽的にもサン=サーンスなどと比べると平易ではありますが、古典以来の書法を駆使して書かれており、専門家が演奏を聴けば両面の水準が分かる曲です。
数年前に課題曲として出たときは、カデンツの前まででしたから、難易度は上がっていますが、逆に現在ではこの程度は弾けないとオケに入るのも難しいでしょう。
ただ中学校時代に弾けなくとも、高校3年間で正しい練習方法を習得すればマスターできます。
かえって中途半端に弾ける子の方が困ると言っていいでしょう。中学校時代は学校生活に追われ、ただでさえ時間が足りませんし、身体的にも発育途上ですからどうしても今持っている資質、能力で「何とかして弾いてしまう」ことになりがちです。
それで一旦「自分は弾ける」と思ってしまうと、他の生徒に対する面子もありますから、時間と忍耐が要求される地道なテクニックの習得はどうしても後回しになってしまいます。
音楽的なことは説明されれば頭では「そうか」と思うものの、テクニックの積み上げがないから音に現れてこない。気が付くと、「学生音コン」の入選常連者が、「日本音コン」ではいつも1次予選どまり。「15過ぎればただの人」と言われる所以です。
まず必要なのは体力
音楽性を養う、というと曲のCDを聴きこんでコンサートに足を運んで、と考える保護者が多いのでしょうが、専門家を目指すならばまず体力であり、自分の身体感覚に興味を持つことが肝心です。
疲れて後の練習に差し支えるからと、体育を見学させるなどもってのほかです。コンクール直前の球技を除けば、マラソンでもバスケでもさせないと肺活量も上がらず、いざロマン派のブレスをとるのに息が続かなくなります。
アナリーゼをいくらやっても、それが頭の中にある限りは聴く方には響きません。その曲のフレーズにあったブレスを取りつつ弾くことによって、頭の中の音楽が身体を通して表に出てきます。それが殆どできない。
息が上がるのを我慢して練習しているうちに、少しづつコントロールが及ぶようになるのですが、それが待てずについ頭で処理しただけで弾いてしまう。
今の子供たちが運動をしてきていないことは非常に大きな問題です。
「感性の引き出し」を広げる
もうひとつの問題は、弦なら弦だけしか聴かないことです。
それも切り張りのCDしか聴いていないから、生を聴きに行ってもミスしか拾ってこない。
ヴァイオリンならグルベローヴァあたりのコロラトゥーラソプラノなど非常に参考になりますし、舞台を含めての生のオペラは是非体験すべきです。
天井桟敷で聞くと、オケと人の声が溶け合ってのぼってきます。何百万円ものオーディオセットでも味わえない目から鱗が落ちる体験です。
もっと手軽なところでは展覧会を見ることです。
それもただ漫然と見ないで、その時代の特徴、技法をいくらかでも頭に入れて見ることです。テンペラ画と油絵の違いは本物を見ないと分かりません。
ほんの一例を挙げましたが、一口に言えば「感性の引き出しを広く取る」ことです。
音のイメージを呼び起こすのにただ漠然と「いい音いい音」と唱えても閉塞感が募るだけです。作者のスタイル、時代背景、絵画、自分の体の感覚、と糸口が多いほど楽です。
目の前にあるものから目線を引いて好奇心を広げること。
これが本人と保護者ともに必要なことだと思います。
photo by scarletgreen