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チャイコフスキー国際コンクールに挑む① 久保陽子

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コンクールによって試されるのは、演奏技術や表現力、音楽性だけにとどまらない。

精神力と体力。特に、異なる環境への適応能力、不利な状況を乗り越える力を蓄えておくことは、国際コンクールに挑む場合、必須となる。

「寒い国」に来たコンテスタント

出場を決めたのは、コンクール開催のたった約4か月前。

課題曲を知ったのは3か月前。第1予選、第2予選、本選・・・。唖然とするほどの曲の多さだ。

本選はチャイコフスキーの協奏曲+任意の1曲。おまけに現代の作曲家による新曲が1曲ある。

彼女は、高校の卒業式を終えたその足で羽田空港に向かったという。

1962年(昭和37年)のことだ。

当時はまだ海外旅行が自由化されておらず、欧州への渡航には相当の時間がかかった。

プロペラ機に乗り、インド・中東を経由する「南回り」の場合は約50時間。当時、やっと開設されたばかりの「北極回り」でも、約30時間かかった。

共産圏の領空は、まだ開放されていない。(東京~モスクワ便が開設されたのは1967年のことだ)

まずスカンジナビア航空(SAS)で東京(羽田)から、アラスカ・アンカレッジ経由で、コペンハーゲンへ向かう。そこでアエロフロート機に乗り換え、モスクワへ。

しかも、4月のモスクワは暗く、寒い。

1958年に始まった「チャイコフスキー国際コンクール」は、「スターリン批判」後のフルシチョフ政権が自由化政策の中で、国家の総力を挙げて開催した国際コンクールだった。

ソ連のコンテスタントたちは、すべて国家によって選抜され、養成された「音楽エリート」だ。それは、オリンピックの「スポーツエリート」と同様である。彼らには、国家所有の「名器」が貸与され、入賞という厳しいノルマが課されていた。

第1回大会で、いきなりピアノ部門の優勝をアメリカにさらわれるという痛恨の事態が発生していた。ソ連勢の第2回大会(1962年)に賭ける意気込みは凄まじいものがあったはずだ。

そんな状況の中、遠い極東の小国から、一人の小さなコンテスタントが、2日がかりで、暗く、冷たい、北方の地にたどり着いた。

右も左もわからない。「雪どけ」とは名ばかりの「寒い国」に降り立ったのだ。

当時の一般の日本人なら誰しもが感じた「東」側に対する理由のない恐怖心。

しかし、そんなものとは全く無縁に、まだ高校を卒業したばかりの18歳の少女は、第1予選が始まるまでの1週間、一心不乱に課題曲をさらった。

彼女の名は、久保陽子。

審査員は「東」側が12人、「西」側が3人、中立が2人。

日本人審査員はいない。

photo by Pavel Kazachkov

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 弦だとか弓の毛だとか、そんなことを意識しているようじゃだめなんだ。ヴァイオリンは弾くものじゃなく、歌うものだ。

レオポルド・アウアー(List

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