Violinear

スポンサーリンク

私はなぜコンクールを聴くのか?

58_Wolfgang01

音楽の推進力に導かれて

先日、あるコンクールのファイナルで、小学生が弾くモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番第1楽章を聴いた。

若い感性がもたらす音楽の推進力に導かれ、新鮮でみずみずしいモーツァルトの世界が私の前に立ち現れてきた。

いまだ不定形の若い樹木たちは、一体どんな方向に幹を伸ばしていくのだろうか。どのような枝葉をつけ、新しい才能を開花させていくのだろうか。

その兆しを、個々の演奏の中から注意深く聞き取っていく。そしてそれを発見した時、コンサートなどでは経験できない特別の感慨を得ることになる。

だから、未成熟の部分や瑕疵があったとしても、あまり気にならない。

コンクールを聴く醍醐味が、ここにある。

コンクールに関しては、否定的な意見もある。音楽の優劣を競うことの愚、入賞を巡る政治的なものの介在への不信・・・

だが、芸術作品は鑑賞され、比較され、好みのフィルターにかけられるものだ。「審査」はともかく、「審美」する眼や耳には必ずさらされる。度重なる審美に耐え、むしろそれによって価値を高め、時代を超えて生き残ってきた作品を、不朽の名作と言うのだろう。

そして、理想の美の追求が、個々の芸術家の競い合いによって促されてきた側面も否定できまい。絶対美とは、永遠に相対美を競い続ける状態とも言い得るのだから。

“比較の場” でこそ、きらめく個性

演奏家がひとりの世界を究めるリサイタルやコンサートと異なり、コンクールは我々に音楽の比較の場を提供してくれる。

私は、そのような場としてのコンクールを肯定する。

制約がある環境で、比較の耳目にさらされるのは、演奏家の宿命でもあるのだから。そして、そこにこそ、未知の個性を煌かせる演奏家と聴衆とが、思いがけず出会う喜びもあるのだから。

審査による入賞結果が、コンクールの全てではない。

コンテスタントが聴かれ比較され、その作用を媒介に、上達し成長する足がかりを掴む。そんな場として、コンクールを位置づけてみたい。

そしてコンテスタントには、「あなたの音楽が好き」と聴衆に率直に言ってもらえる演奏家に是非なってほしいと思うのだ。

若い演奏の息吹きが、コンクール特有の張り詰めた空気を徐々にまろやかにしていく。

昼食を抜いても、モーツァルトを聞いていたいな、と切に思う。

緊張に満たされ、人々が粛然としている場に限って、情けなくも私のお腹の虫は鳴き始めるのが常だ。が、その日は昼食を抜いても、何故だか実に静かだった。収まっている。朝、バナナを2本も食べてきたからか。いや、違う。

ト長調の華麗な第3番は疾走する。お腹の虫は追いつけない。(※)

(※)「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」(小林秀雄『モオツァルト』より)をもじって。

photo : File:Wolfgang01.jpg – Wikimedia Commons

スポンサーリンク
 弦だとか弓の毛だとか、そんなことを意識しているようじゃだめなんだ。ヴァイオリンは弾くものじゃなく、歌うものだ。

レオポルド・アウアー(List

スポンサーリンク
Return Top